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【アラベスク】  第10章 カラクリ迷路



第1節 午前中は晴れ [4]




「そんな事をおっしゃらないでください」
 たまらず聖美は栄一郎の肩に手を添える。
「お父様がそんな事を」
「謝るのはこちらの方だ」
 添えられた手に、栄一郎も片手を添える。皺枯れた、もう昔のように力強くはない掌。
「聖美さんには、本当に辛い思いをさせた。今だって、聖美さんがいなければこの霞流家はとうに落魄(おちぶ)れている」
 外国企業や大手会社の安い製品が幅を利かせる繊維業界。江戸や明治から続く伝統のある工場が、今でも次々と閉鎖に追い込まれている。
「聖美さんが日本中、いや外国へまで飛び回りあれこれと手を尽くしてくれていなかったら、知多の工場も潰れている。本当に迷惑を掛けている」
「いいえ、私はそういうお仕事が好きなんです。気になさらないでください」
 だが栄一郎は、聖美のその、無理に明るく答えようとする声に唇を噛んだ。
「雄一は、聖美さんを利用しているだけだ。聖美さんがそうやって支えていてくれるから離婚しないだけだ。あれはそういう奴だ」
 いつの間にか庭へ戻していた視線が揺れる。
「あれはそういう汚い奴だ。聖美さんはあんな奴に扱き使われる必要はない」
 そこでサッと聖美を振り仰ぐ。
「別れたいのであれば、ワシは構わん。雄一にも文句は言わせん」
 だが、聖美は笑った。
「私は別れません。だって霞流家が好きですもの」
 本来なら、夫である雄一が好きだからと告げるべきであろう。だが、それを口にするのはかえって当て付けに聞こえるのではないかと、聖美は思い留まった。
 なにより、自分にはそんな言葉を口にする権利はない。
「私、今の仕事が好きです。むしろ私を追い出さないでくれる霞流家と、それと雄一さんに感謝したいと思っています」
「感謝、か」
 栄一郎は苦々しく呟いた。
 不出来な息子には出来過ぎた相手だ。聖美の存在がどれほど霞流を支えているか。だが今、霞流の中心となって知多で工場をまわしている雄一には、聖美のありがたさなど微塵も理解はできていまい。
 小さい頃からそうだった。失敗や悪いことはすべて他人に押し付け、人の親切や手助けは当然の事として受け取る。父親として情けなく思うし、なによりも雄一をそういう人間にしてしまったのが自分なのだと思うと、もう聖美には申し訳なくて言葉もない。
 離れた場所で、千日紅が笑う。
 そうだ。雄一をあのような人間にしてしまったのは自分なのだ。なぜなら、自分は彼女を――――
 栄一郎は強く頭を振る。
 やめよう。もう終わった事なのだ。今さらどうにもなりはしない。
 遠き思い出を振り払うように頭を振る栄一郎に目を丸くし、聖美は慌てて身を屈めた。
「お父様? どうかなさいまして?」
「いや」
「ご気分でもお悪くなりました? お部屋にお戻りになります?」
「いや、いい」
「お父様?」
 提案を拒む栄一郎の態度に聖美が戸惑っていると、やがて後ろから静かに声が掛けられた。
「いいえ、お戻りになりましょう」
 数歩離れたところで、男性の使用人が一人立っている。以前、聡や瑠駆真が慎二を訪ねてきた際、応接に忘れられた眼鏡を取りに来た男性。栄一郎の使用人だ。
「お約束の一時間が経ちました」
 そう一言。ゆっくりと歩み寄り、車椅子に手を掛ける。
「相変わらず、小うるさいの」
 ボヤく主人にも澄まし顔。だが一歩離れた聖美と目が合うや、呆れたように眉尻を下げた。
 聖美はその表情に思わず笑みを零しそうになり、だが突然の物音に振り返る。
 車の停車音。ハッと息を呑む聖美のそばで、栄一郎が小さく呟いた。
「慎二か。今日はまたずいぶんと早いお帰りじゃな」
 少し嫌味を含めたその言葉に、聖美はまた深く頭を下げる。
「本当に、申し訳ございません」
 詫びる聖美に手を伸ばし、ポンッと腕を一叩き。
「そうやって謝るのは、慎二に失礼だ」
 頭を上げる聖美を笑い
「慎二ももう大人だ。母親が気を掛けてばかりでは先へは進めん。これは慎二自身の問題だよ」
 その言葉に少し救われつつ、だがやはり自分の息子が迷惑を掛けているのだと思うと、聖美は母として遣り切れない思いに包まれる。







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